読売新聞記事 「ホーおじさん」の遺言

[ワールドビュー]「ホーおじさん」の遺言…ハノイ支局長 吉田健一

2018年1月28日5時0分


 ベトナム建国の父であるホー・チ・ミン初代国家主席が眠るハノイ中心部のホーチミン廟びょう。グレーの重厚な石造りで荘厳な雰囲気が漂うこの場所に、先日、旧知の老共産党員に誘われて久しぶりに足を運んだ。

 社会見学の小学生に若いカップル、地方からの団体旅行者。「ホーおじさん」と親しまれ、死後半世紀近くたった今も訪れる人が絶えることはない。儀仗ぎじょう兵4人が守る遺体との対面を終えて外に出ると、その老党員がふと自問するように言った。「ホーおじさんが生きていたら、現在のベトナムをどう思うのだろうか」

 歴史に「IF」(もし)は禁物という。それは承知の上で、2人でホーの遺言に思いを巡らせた。

 「党員は団結を守り、勤勉、正直、模範的な無私の精神を示さねばならない」

 「米国に打ち勝ったら、以前の10倍も美しい祖国を建設しようではないか」

 「人民の時間とお金を無駄遣いしないよう、盛大な葬式は不要」

 「火葬後の遺灰は北部、中部、南部の丘陵に埋め、石碑や銅像は建てないように。訪れる人が休める建物をつくり、記念の植樹ができるようにしてほしい」

 国民への奉仕と団結の大切さを党員に説き、自らの神格化を拒む。人民服にサンダル履きという質素な暮らしを好み、清廉で知られた人らしい遺志である。

 だが、現実はどうか。

 1969年の死去後、遺体は旧ソ連の支援を受けて防腐処理を施され、後に廟に納められた。冷戦終結後の92年には、国の指導理念として憲法に「マルクス・レーニン主義」と並んで「ホー・チ・ミン思想」が加わった。「ホー・チ・ミン主席の思想や道徳、品格を学べ」と呼びかける政治看板はいま、街中に数多い。

 汚職や不正の横行も深刻だ。最近は、「保守派」のグエン・フー・チョン党書記長が主導する「汚職撲滅運動」で、「改革派」のグエン・タン・ズン前首相に近い人物が相次ぎ摘発された。「反腐敗に名を借りた権力闘争」(党関係者)との見方がもっぱらだ。

 経済発展最優先の代償として、「美しい祖国」どころか、環境汚染は国民の命を脅かすまでになった。国営メディアは昨秋、ベトナム人の大気汚染に起因する死亡は死者全体の1割に上るとの研究結果を伝えた。

 確かにホーの後継者たちは、ホーの悲願だった南北ベトナムの統一を成し遂げた。しかしその後のこの国の歩みを振り返ると、ホーの遺言がその後継者らによってないがしろにされてきた感は否めない。ホーが嫌った偶像化を進め、カリスマ亡き後の一党支配体制の維持にホーを徹底的に利用し続けているのだ。

 ホーの遺志が実現していたら――。まさに「歴史のIF」だが、想像は膨らむばかりである。

 「ベトナム人はみな、『ホーおじさんの子や孫』。だとすれば、不肖の子、不肖の孫のなんと多いことか」

 くだんの老党員の嘆きが、ホーおじさんの声と重なって聞こえる。