ベトナム収容所の壁の彼方

収容所の壁の彼方

2015年8月17日

「人生の歩みの中では

岐路に立つことがあり

どちらへ向かえば良いか分からない」

ベトナムの若者が世界中からPhải Lên Tiếng(今こそ声を大にしよう)と言う歌を聞きに集まって来たが、その時、この歌詞を書いた青年は既に投獄中の身であった。Paulus Lê Văn Sơnは、この歌が自分のブログの言葉を使って書かれたことすらも知らなかった。

この歌が歌われたのは、著者のプロフィールと社会正義・人権・領土主権に関する活動を広く伝えるためだった。端的に言うと、そうした活動故に著者はベトナムで投獄されることになったのだ。

Sơnは26歳で逮捕されハノイの収容所B14に収監された。

「6平方フィートしかない居室の中で食べて寝て排泄する」と本人はLoaに語る。「何もかも6平方フィートの中ですます。」

Sơnの人生は、その後4年間、停止した状態となり、その尊厳も失われた。Sơnは、この4年間、居室を4回、変えた。一方、収容所の壁の外では時間の歩みが早かった。太陽は1400回も昇っては沈んだ。月の満ち欠けが数十回となく繰り返された。母親は他界した。

空間の狭隘さは明らか

「晴れた日は月が出る。月を見たいが、ここからでは見えない。」とSơnは述懐する。私は、容器一杯に水を満たし出来るだけ高いところに置く。月の光が水に映るまでそうする。その時になって、月が丸かったと分かる。」

Sơnが逮捕されたのは2011年8月3日、その年の反対分子一斉取り締まりの時だった。一緒に逮捕された人権運動家17名はNghê An州のMost Holy Redeemer and the Presbyterian Churchの信徒であり、後に反乱の廉で3年から13年の懲役刑を受けた。中でもSơnは、最も厳しい13年の刑を受けた。これが後に控訴を経て4年に減刑となったが、その間、罪を認めるよう勧告された。

その控訴審の頃、Sơnは、母親が2年前に他界したことを初めて知った。

「控訴審が近づいていた頃、私は母の死を知った。」とSơnは沈痛な声で言う。「驚きとしか言えなかった。弁護士の目の前で、公安警察が座ったまま私を監視している前で、私は崩れ落ちそうになった。考えることも出来なかった。言われたことが信じられなかった。」

17名の運動家や他の多数の人たちが収監生活を送る中で、政府の狙いは反対意見の抹殺であったが、これは収監により完了したわけではない。

Sơnは、収監された日に知ったことを覚えている。「受刑者の仲間が、あの2012年2月12日の夜、私の顔と目を殴った。理由なんか全くない。私に祈ってはいけないと言った。座ったまま目を閉じていても、黙祷していても、受刑者は私が祈ることを禁じた。」

「仲間の受刑囚」は3か月以上、Sơnと一緒だった。Sơnは、この男から何度も収監理由と社会活動のことを聞かれたと言う。Sơnは最後には、その質問を遮り、逆に、自分を尋問するために一緒に居るのかと聞いた。相手は、その通りと認め自分は公安警察だと名乗った。Sơnが殴られたのは、その時だった。Sơnは警報を鳴らして看守を呼んだ。するとB14に移動させられた。そこでも事態は良くはならなかった。

Sơnはハノイの第1収容所に移送された。悪名高いハノイ・ヒルトンのように、ここはHỏa Lò即ち灼熱の溶鉱炉とまで言われていた。Sơnの居室は、遠く離れたところに隔離された場所にあった。中に入ると、5人の一般受刑囚が待機していた。

「Hỏa Lòに着いてみると、他の受刑囚が既に、そこにいた。私が中に入ると、片足で座れと言った。片足だ。それから私の顔を殴った」とSơnは言う。しごきの儀式だった。

男たちはSơnを無理矢理に、こき使った。

「自分たちの服を洗わせた。身体をもませた。居室の中で自分たちに必要なことをすべて、私にやらせた。」

苛めに堪えられたのは信仰のお陰だったとSơnは言う。

「長い間、私は虐待に堪えた。自分はカトリック信者だと自分に言い聞かせた」と言う。「だから仲間の受刑囚を非難もしなかった。争わなかった。主イエスが仕えることが出来たなら、主イエスが虐待に堪えて十字架に付けられたなら、私も主イエスの子供として、そうしなければならないと思った。実際、仲間の受刑囚に仕えた。」(編集者注。「カトリック」は初めの翻訳では「クリスチャン」と誤訳されていた。)

身体の虐待だけではなかった。薬物があり性的な行為もあり、Sơnは崩壊寸前まで行った。

「仲間の受刑者は既に4-5回目の投獄だった。それなのに、収容所の中でヘロインを注射しメタンフェタミンその他の薬物を使えたのは何故か。しかも何度も私に服用させようとしたのだ。何度も、そうした。強制的に服用させようとした。だが、私は拒否した。私は服用しなかった。」

「そのうちに、もっとひどいことになった。暑い夏の日が続いた。仲間は一糸まとわぬ裸になり、そこで横になり眠るのだ。そして、不快なことを始めたのだ。」

凶悪な犯罪者を思想犯と同じ居室に入れるのは、ベトナム当局の通常の威嚇戦術だとNguyễn Văn Oaiは言う。Oaiは、逮捕された17名のうちの一人でSơnと同じく、本年8月に釈放された。

OaiとSơnは、2013年1月の判決と正式結果を待つ間、Vinh州の別の収容所に一緒に収監されていたが、事態は変わらず過酷であった。

「18カ月ハノイに居た後、当局は私たちを公判のためにVinh州に移送し、麻薬中毒者や殺人犯と一緒の居室に入れた。HIVが陽性な人物と一緒だった」とOaiは言う。

弁護を受ける権利も適正な法手続きもない。弁護士に会ったのは1回だけ、それも後半の直前だったとOaiは言う。

Trương Minh Tam は、Con Đường Việt Nam即ち「ベトナム民主化運動」のメンバーであるが、政治的信念を表明した廉で1年間、収容所で過ごすことになった。Tam は、思想犯の状態は過酷を極めると言い、5月には、オタワに赴きカナダ議会でベトナム政府の思想犯の取り扱いについて証言した。

Tamの警告

「狭い居室のひとつひとつに2名の囚人を入れる。そのうちの一人は犯罪者で、その任務は、思想犯の行動の監視だ。犯罪者は思想犯を刺激し虐待する理由を見つける。つまり、当局は、間接的な形で虐待と言う手法を使っているのだ」とTamは証言した。

Tamはカナダの国会議員に対して、思想犯に配られる食事は腐り、ゴミや砂利が混じり、水と言えば1日当たり10リットル(約2.5ガロン)しか与えられず、これを飲み水として使うか洗濯に使うことになっていたと語った。また、状態は極めて過酷で全員が皮膚病や骨粗症や視力減退のような重病を患っていたと証言した。

Tamは、カトリック信者である思想犯に対する差別は更に酷く、宗教関連書を読むことも祈祷することも聖句を唱えることも禁じられていたと言う。

「だからベトナムの収容所ではハンストが頻発している」とTamは、議員に語った。「ハンストは当局に対する最後の抗議手段。思想犯に残された抗議手段は自分の健康と身体しかない。」

時によって、収容所当局は直接的な威嚇方法をとる。Oaiは、看守が銃を自分の居室に突っ込んで自分を撃つ仕草をしたと言う。しかし、Oaiは生命が惜しいとは思わなかった。心の痛みを感じたのは、2013年7月、友人のSơnと一緒にNam Hà収容所に収監された時であった。人権擁護団体Front Line Defendersが7月18日に記録した出来事によると、Sơnは挨拶しなかったと言う理由で看守に激しく殴られたと言う。

「その朝11時ごろ、看守らはSơnを(居室に)連れ戻した」とOaiは言う。「皆が入って来た時に、何があったのかと聞いた。看守はSơnが転倒したと言った。私は、そんなことは、有り得ないと言った。私は、その場でSơnの服を脱がした。傷の箇所が17個所か18個所あった。」

Oai と Sơnに加え2名の受刑者が、虐待に抗議しハンストを始め労働を拒否し、全員が報復として独房に移された。

「私は、警告として処罰を受け独房に入れられ、その後、1年間、独房で過ごした」とOaiは言う。

オックスフォード大学の犯罪学センターのシャロン・シャーリー博士は、このような長期間の処罰は禁止事項だと言う。「無期限の独房生活は禁止事項だ。長期の独房生活は、定義すれば15日以上となるが、実際には短期間だが、これも禁止事項だ。」

シャーリー博士は、国連の受刑者取扱い最低基準によると独房は拷問に等しいと言う。

「他にも問題がある。受刑者を独房に閉じ込める理由だ。その理由が政治的であるなら、反対分子を黙らせることであるなら、これは絶対に禁止すべきことだ。法は、この点に関し、極めて明快だ。」

Sơnが公安警察により過酷な虐待をうけてから僅か数か月後の2013年11月、ハノイは国連の拷問防止条約に署名し、翌年、批准した。

Paulus Lê Văn Sơn及びNguyễn Văn Oaiさらに他の多くの政治犯は、獄中にいるから、そうした変化にも気が付かない。

英語原文 Hell Behind Prison Walls

http://www.viettan.org/Hell-Behind-Prison-Walls.html